キムさん
昨夜、キムさん(キム・スソプ氏)が亡くなった。
新聞の記事では肺炎となっているが、がんの治療中に肺炎となり直接の死亡原因が肺炎とされた。抗がん剤治療を頑張って受けていた最中であった。
キムさんと知り合ったのは、3年半ほど前になる。恨之碑の会に縁があって入会し、その後お付き合いが始まった。
たまたま住まいが私と同じ町内であったこともあり、近くの居酒屋割烹で飲む間柄となった。
キムさんは私と一回り違いの午年である。なんとなく気が合ったのは干支のせいかと思う。
言うまでもなく、キムさんと私の人生経験の質と量はまったく違う。
私は普通のサラリーマンであり、大学紛争時にも私はノンポリであった。沖縄に来てから政治的な主張を持ち始めたと言っていい。
対して、キムさんはバリバリの活動家であり世話役であった。同胞の朝鮮人に対しあらゆる手を尽くし助け合い支える立場であった。
元慰安婦であったぺ・ポンギさんとの沖縄での出会いは、キムさん(キムさん夫婦)にとって運命的な出会いであったと思われる。そのぺ・ポンギさんの面倒を彼女が亡くなるまで見たことは、称賛に値する。
キムさんと酒を飲み交わした中での会話で、一番印象に残っているのは昨年の今頃交わした内容である。
ちょうど韓国と北朝鮮が急接近をし、南北統一の機運が最高潮に高まっていたころである。
もとより、キムさんの夢は故郷の朝鮮半島南北統一であった。
統一された国の名は、朝鮮ではなく高麗(コリョ)がふさわしいと言っていた。キムさんは南北統一実現の高まりを認識しつつも、こう言ったのである。
”そんなに簡単に南北統一ができるとは思わない。”
”来年は北朝鮮に久しぶりに行ってみようかな。あんたも一緒に来るか?”
今思えば、暗示的な言葉である。
南北朝鮮の統一には今現在、まだ課題がたくさん残っている。
北朝鮮(この言い方もキムさんは好まなかった。出来たら”共和国”と言ってほしいと言っていた)の思惑は、韓国文大統領の思惑のはるか先を目指しているように思える。
キムさんにはそれが分かっていたのだろう、共和国が目指す山の高さを。
そして、北朝鮮にまた行きたいという気持ちはどこかで自らの命をわかっていたのかもしれない。
ご冥福をお祈りする。