「100人委員会」
(『ゆかるひ』での集会)
「100人委員会」の報告会に参加した。
昨年の12月、糸数慶子氏の社大党からの不出馬情報をきっかけとして、市民からの選考過程に対する要求が出てきた。
高良鉄美氏が正式に候補となり、糸数氏は自ら身を引いた。革新勢力を分けることにより保守勢力に利することを避けたのである。
「100人委員会」にとって、沖縄大学でのシンポジウムは苦い経験になったと思う。
高良鉄美氏が、直前に出席をキャンセルしたのである。
もし、このシンポジウムでの両者の出席がなされ、糸数氏から高良氏への禅譲(と言って良いと思う)が市民の目の前で繰り広げられていたならば、「100人委員会」の存在意義が認められたかと思う。
しかし、高良氏の欠席により「100人委員会」の存在が曖昧なものになってしまった。
他者からの評価が曖昧なものになってしまった、と言う印象が出てきたと言うことである。
委員会の最初の仕事において、何をするのか何をしたのか、と言う性急な期待と好奇心に対して、充分な回答を示せなかったかと思う。
もとより「100人委員会」の目指す、開かれた候補者選択の過程の可視化、市民から選ばれる候補者の選定は素晴らしい理想である。
簡単に諦めて捨ててしまうような提言ではないのである。
まだ「100人委員会」の活動は始まったばかりである。
素人集団のため試行錯誤も続く。
今月末に、シンポジウムを開くと言っていた。
参院選の候補者などが、一堂に会する機会が生まれるかも知れない。
「100人委員会」をもう一度、応援してみたい。
活断層の証拠
(辺野古浜テント沖 右側の小山)
先日の奥間政則氏のドローン講演の際に活断層の話があり、辺野古の右側海岸セリ上がった岸壁が活断層の証拠となりうる、との話を聞き早速見に行った。
確かに波の浸食を受けた場所が8m程持ち上がっている。普通沖縄の海岸線であれば干潮による波の浸食は2m位である。
それが8mと言うことは、活断層が何回か活動しズレて競り上がった箇所として、辺野古の右側の小山が存在している。
実に分かりやすい活断層の活動の証拠である。
辺野古のキャンプシュワブ、海側のフェンスである。右側からカヌー隊が出ていく。
左側は基地内である。
歩いてフェンス際から海に出ていけば、警備員が警告してくる境界線である。
干潮の際に本土からの訪問者の中で、歩いてフェンス際から回り込もうとする人がいる。
仕方なく、見かけた場合には注意の声掛けをする。
小さく可愛いいヤドカリも多く、つい歩いてしまう場所である。
しかし隣は大きく危険なヤドカリが居着いている。
済州島の軍事基地化
(ZENKO沖縄集会)
昨日夕方より、沖縄船員会館で 2019ZENKO スピーキングツアー 那覇集会が行われた。
その中の一つのプログラムに、韓国済州島からの報告があった。
ノ・ミンギュ氏は済州島道庁前での座り込み等の活動をしている方である。
済州島には、アメリカ軍の海軍基地が造られた。今また住民の意思に関係なく、済州島の第二空港が造られようとしている。
もちろん、アメリカ軍の空軍基地である。
考えてみれば、琉球弧の繋がりとして与那国島・石垣島・宮古島・沖縄本島・奄美大島の各島に自衛隊、アメリカ軍の基地が増強され、目と鼻の先にある済州島にアメリカの海軍基地が造られ、アメリカの空軍基地が造られようとしている。
この狭い海域に異常なまでの軍備施設の数である。
改めて海域の地図を見ると、ため息が出る。
これらの施設にTHAADが重なってくる。
日米韓の軍事同盟により日韓が守るのは、残念ながら遠く太平洋を越えたアメリカなのである。
星条旗よ永遠なれ、か。
那覇空港
共通政策合意
安全保障関連法廃止を訴えるグループ「市民連合」が要望した「共通政策」に対し野党5党派が、夏の参院選に向け合意した。
共通政策は3度目となるが、前回は民進党の政策としては「在日米軍再編に関する日米合意を着実に実施する」と言う文言であり、共通政策としては同じ項目の中に「新基地建設の中止」が一文あっただけである。
今回は、沖縄関係だけでの1項目としての政策となり、辺野古新基地建設反対、米軍普天間飛行場の早期返還金、日米地位協定の改定を明記した。
更に「国の補助金を使った自治体に対する操作、分断を止めること」と明記している。
沖縄の現状・問題点がかなり理解された政策となっており、全国レベルで沖縄問題が共通認識されつつあると考えてよい、分かりやすい共通政策となっていると思う。
安部政権に対してバラバラの野党で立ち向かうことは出来ない。
三本の矢ならぬ、五本の矢で切り崩していかなければならない。
平和の礎 刻名
(沖縄タイムス記事)
金萬斗さんの名前を知る人は殆どいない。
彼は先の大戦において、朝鮮半島から徴用され貨物船の船員として働かされていた。
その貨物船『彦山丸』は沖縄県本部町に停泊していた際に、米軍の空襲を受け沈没・座礁した。
本部町健堅(けんけん)に流れ着いた遺体の中に金萬斗さんの遺体も含まれていた。
当時の地元の方々により仮火葬されたその遺骨は、他の同じく彦山丸の乗組員であった、日本人・朝鮮人とともに、海岸沿いの小高い場所に仮埋葬された。
長い年月をへて、金萬斗氏の名前が平和の礎に刻名されることとなった。
戦争がいつ終わったのかは、人により違う。
特にここ沖縄においてはより複雑である。
今回の金萬斗氏の刻名により、戦争がまた一つ終わったのかも知れない。
ただ、また一つ終わっただけなのかも知れない。